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戦争と平和を考る ロシアのウクライナ侵攻 太平洋戦争を考える 避けられなかったのか「原爆投下」 平和堅持は人類共通の責務 核兵器で抑止力になるか 核兵器廃絶 |
避けられなかったのか「原爆投下」
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日本への原子爆弾投下 | |||||||
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第二次世界大戦 太平洋戦争中 |
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原子爆弾の投下によって発生したキノコ雲。 左が広島で右が長崎 |
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衝突した勢力 | |||||||
指揮官 | |||||||
ウィリアム・S・パーソンズ ポール・ティベッツ |
畑俊六 | ||||||
部隊 | |||||||
マンハッタン計画:アメリカ50、イギリス2 第509混成部隊:アメリカ1,770 |
第二総軍:広島:40,000 長崎:9,000 |
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戦力 | |||||||
広島市:原子爆弾「リトルボーイ」 長崎市:原子爆弾「ファットマン」 |
不詳 | ||||||
被害者数 | |||||||
アメリカ、オランダ、イギリス 捕虜20死亡 | 広島: 9万 – 16万6千人死亡 長崎: 6万 – 8万人死亡 全体: 15万 – 24万6千人死亡[1] |
日本への原子爆弾投下(にほんへのげんしばくだんとうか)は、第二次世界大戦の末期である1945年(昭和20年)8月に、連合国のアメリカ合衆国が枢軸国の日本に投下した2発の原子爆弾による空爆。1945年7月に最初の原子爆弾が完成した[2]。これらの投下は人類史上初、なおかつ世界で唯一核兵器が実戦使用されたものである。日本国においては、1963年の東京地裁の判決により、これらの原爆投下は国際法違反であったという司法的判断が確定した[3][4][5]。
本稿は、広島市に投下されたリトルボーイ、長崎市に投下されたファットマンの2発、および投下されなかった3発目の原子爆弾を含めて総論的に述べる。
太平洋戦争における日本列島での上陸直接戦闘(ダウンフォール作戦、日本軍では「決号作戦」)を避け、早期に決着させるために、原子爆弾が使用されたとするのが、アメリカ政府による公式な説明である。
1932年から日米開戦のときまで10年間駐日大使を務め、戦争末期には国務長官代理を務めたジョセフ・グルーは、ハリー・S・トルーマン大統領がグルーの勧告どおりに、皇室維持条項を含む最後通告を1945年5月の段階で発していたなら、日本は6月か7月に降伏していたので原爆投下は必要なかったと述べている[6]。
アメリカのABCテレビが1995年に放送した「ヒロシマ・なぜ原爆は投下されたのか(Hiroshima: Why the Bomb was Dropped - Peter Jennings)」という番組では「原爆投下か本土上陸作戦しか選択肢がなかったというのは歴史的事実ではない。他に皇室維持条項つきの降伏勧告(のちにこの条項が削除されてポツダム宣言となる)を出すなどの選択肢もあった。従って、原爆投下という選択はしっかりとした根拠に基づいて決断されたものとはいえない」という結論を示した[7]。
原爆を日本に使用する場合、大きく分けて3つの選択肢があった。①原爆を無人島、あるいは日本本土以外の島に落として威力をデモンストレーションする。②原爆を軍事目標(軍港や基地など)に落とし大量破壊する。③原爆を人口が密集した大都市に投下して市民を無差別に大量殺戮する。また、原爆を使用するにしても、2つの方法があった。(A)事前警告してから使用する。(B)事前警告なしで使用する。①の使い方ならば、絶大な威力は持っているがただの爆弾ということになり、さらに②ならば大量破壊兵器、③ならば大量殺戮兵器になり、いずれも国際法に違反して、人道に反する大罪となる。しかし③と(A)の組み合わせならば、警告がしっかりと受け止められて退避行動をとることができれば死傷者の数をかなり少なくできる可能性があり、大量殺戮兵器として使ったとは言えなくなるかもしれない。③と(B)の組み合わせならば、まちがいなく無差別大量殺戮であり、しかもその意図がより明確なので、それだけ罪が重くなると言える。この違いを、原爆を開発した科学者たちや、1945年5月31日に都市への無警告投下を決定した暫定委員会のメンバー、真珠湾攻撃の復讐を公言していたトルーマン大統領、彼とタッグを組んでいたジェームズ・F・バーンズ国務長官たちは非常によく理解していた。例えば、海軍次官のラルフ・バードはあとになって、自分は事前警告なしでの使用には同意しないと文書で伝えた[8]。フランクリン・ルーズベルト大統領は1944年9月22日の段階で、実際の原爆を日本に使うのか、それとも、この国で実験して脅威として使うのかという問題を取り上げていた。同年9月30日には、アメリカ科学研究開発局長官のヴァネヴァー・ブッシュとアメリカ国防研究委員会化学・爆発物部門の主任ジェイムス・コナントはヘンリー・スティムソン陸軍長官に「原爆は最初の使用は、敵国の領土か、さもなければわが国でするのがいい。そして、降伏しなければ、これが日本本土に使われることになると日本に警告するとよい」と勧めた[9]。1945年5月、イギリスはアメリカに、日本に対して原爆使用前に警告を与えるべきであると文書で要望していた[10]。
レオ・シラードが、原爆と原子力利用について大統領に諮問する暫定委員会に大統領代理として加わっていたバーンズ(約1ヶ月後に国務長官となる)と、1945年5月28日に会見したときに得た「バーンズは戦後のロシアの振る舞いについて懸念していた。ロシア軍はルーマニアとハンガリーに入り込んでいて、これらの国々から撤退するよう説得するのは難しいと彼は思っていた。そして、アメリカの軍事力を印象づければ、そして原爆の威力を見せつければ、扱いやすくなると思っていた」という証言は、「アメリカはソ連のヨーロッパでの勢力拡大を抑止するために原爆を使った」という主張の根拠となっている[11]。
有馬哲夫によると、トルーマンとバーンズが、無警告で都市への原爆投下を強行した理由は、人種的偏見と真珠湾攻撃に対する懲罰、原爆をもっとも国際社会(とりわけソ連)に衝撃を与える大量殺戮兵器として使用することで、戦後の世界政治を牛耳ろうという野心である[12]。
戦後の世界覇権を狙うアメリカが、原子爆弾を実戦使用することによりその国力・軍事力を世界に誇示する戦略であったとする説や、併せてその放射線障害の人体実験を行うためであったという説、更にはアメリカ軍が主導で仕組んだ説があり、広島にはウラン型(リトルボーイ)、長崎へはプルトニウム型(ファットマン)とそれぞれ違うタイプの原子爆弾が使用された。豊田利幸はウランの核爆発が実験で確認できなかったためと推測している[13]。
日本への原子爆弾投下までの道程は、その6年前のルーズベルト大統領に届けられた科学者たちの手紙にさかのぼる。そして、マンハッタン計画(DSM計画)により開発中であった原子爆弾の使用対象として日本が決定されたのは1943年5月であった。一方で、原子爆弾投下を阻止しようと行動した人々の存在もあった。
具体的に広島市が目標と決定されたのは1945年5月10日であり、長崎市は投下直前の7月24日に予備目標地として決定された。また、京都市や新潟市や小倉市(現・北九州市、長崎市に投下されたファットマンの当初目標地)などが候補地とされていた。
1939年1月、イギリス国王書簡局発行『年2回刊 陸軍将校リスト 1939年1月号』に、昭和天皇の名がイギリス正規軍の陸軍元帥として掲載される[14]。
1939年8月2日、アメリカへの亡命物理学者のレオ・シラードらからの提案を受けたアルベルト・アインシュタインがルーズベルト大統領に宛てた手紙において、原子爆弾がドイツにより開発される可能性に言及し、核エネルギー開発の支援を進言。
1939年9月1日、第二次世界大戦が始まる。
1939年10月11日、その手紙(アインシュタイン=シラードの手紙)がルーズベルトに届けられる。
1940年4月10日、イギリスが、第一回ウラン爆発軍事応用委員会(MAUD委員会)の会議を開催。
1940年4月、理化学研究所の仁科芳雄がウラン爆弾計画を安田武雄陸軍航空技術研究所長に進言[15]。
1940年4月、安田武雄中将が部下の鈴木辰三郎[注 2] に「原子爆弾の製造が可能であるかどうか」について調査を命じた。
1940年6月、鈴木辰三郎は東京帝国大学(現・東京大学)の物理学者嵯峨根遼吉(当時は助教授)の助言を得て、2か月後に「原子爆弾の製造が可能である」ことを主旨とする報告書を提出[注 2]。
1940年7月6日、すでに仁科芳雄等がイギリスの学術雑誌『ネイチャー』に投稿してあった『Fission Products of Uranium produced by Fast Neutrons(高速中性子によって生成された核分裂生成物)』と題する、2個の中性子が放出される (n. 2n) 反応や、複数の対象核分裂を伴う核分裂連鎖反応(臨界事故)を起こした実験成果が、掲載された[16]。この実験では臨界量を超える天然ウラン(ウラン238-99.3%, ウラン235-0.7%)に高速中性子を照射したわけだが、現在ではそのことによってプルトニウム239が生成されることや、核爆発を起こすことが知られている[17]。
1941年4月、日本陸軍が理研に原爆の開発を依頼。ニ号研究と名付けられた[18]。
1941年7月15日、イギリスのMAUD委員会は、ウラン爆弾が実現可能だとする最終報告を承認して解散。
1941年10月3日、MAUD委員会最終報告書が、公式にルーズベルト大統領に届けられる。
1941年11月末、後に連合国軍最高司令官総司令部の主要メンバーとなるユダヤ人ベアテ・シロタ・ゴードンの母で、日本の貴族院議員のサロンを主催していたオーギュスティーヌが、夫レオ・シロタと共にハワイから再来日。
1941年12月8日、日本がイギリス領マラヤでマレー作戦を、アメリカ準州のハワイで真珠湾攻撃を行ない、太平洋戦争が勃発。日本とアメリカは敵味方として第二次世界大戦に参戦することとなった。
1942年9月26日、アメリカの軍需生産委員会が、マンハッタン計画を最高の戦時優先等級に位置づけた。
1942年10月11日、アメリカはイギリスにマンハッタン計画への参画を要請。
1944年7月9日、朝日新聞に、『決勝の新兵器』と題して「ウラニウムに中性子を当てればよいわけだが、宇宙線には中性子が含まれているので、早期爆発の危険がある。そこで中性子を通さないカドミウムの箱に詰め、いざという時に覆をとり、連鎖反応を防ぐために別々に作ったウラニウムを一緒にして中性子を当てればよい。」という記事が掲載された。ウラン原爆の起爆操作と全く同じであった。[19]
1945年7月26日、日本への最後通告としてポツダム宣言を発表した。
1939年9月1日に第二次世界大戦が勃発した。ユダヤ人迫害政策を取るナチス党率いるドイツから逃れてアメリカに亡命していた物理学者のレオ・シラードたちは、当時研究が始まっていた原子爆弾をドイツが保有することを憂慮し、アインシュタインとの相談によって、原子爆弾の可能性と政府の注意喚起をルーズベルト大統領へ進言する手紙を作成した[20]。アインシュタインの署名を得たこの手紙は1939年10月11日に届けられた[21]。その手紙には原子爆弾の原材料となるウラニウム(ウラン)鉱石の埋蔵地の位置も示されていた。ヨーロッパのチェコのウラン鉱山はドイツの支配下であり、アフリカのコンゴのウラン鉱山をアメリカが早急におさえることをほのめかしている[22]。ルーズベルト大統領は意見を受けてウラン諮問委員会を一応発足させたものの、この時点ではまだ核兵器の実現可能性は未知数であり、大きな関心は示さなかった[23]。
2年後の1941年7月、イギリスの亡命物理学者オットー・ロベルト・フリッシュ (Otto Robert Frisch) とドイツのルドルフ・パイエルスがウラン型原子爆弾の基本原理とこれに必要なウランの臨界量の理論計算をレポートにまとめ、これによってイギリスの原子爆弾開発を検討する委員会であるMAUD委員会が作られた[24][25]。そこで初めて原子爆弾が実現可能なものであり、航空爆撃機に搭載可能な大きさであることが明らかにされた[26][27]。ウィンストン・チャーチル首相が北アフリカでのイギリス軍の大敗などを憂慮してアメリカに働きかけ、このレポートの内容を検討したルーズベルト大統領は1941年10月に原子爆弾の開発を決断した。
1942年6月、ルーズベルトはマンハッタン計画を秘密裏に開始させた。総括責任者にはレズリー・グローヴス准将を任命した。1943年4月にはニューメキシコ州に有名なロスアラモス国立研究所が設置される。開発総責任者はロバート・オッペンハイマー博士。20億ドルの資金と科学者・技術者を総動員したこの国家計画の技術上の中心課題はウランの濃縮である。テネシー州オークリッジに巨大なウラン濃縮工場が建造され、2年後の1944年6月には高濃縮ウランの製造に目途がついた。
1944年9月18日、ルーズベルトとチャーチルは、ニューヨーク州ハイドパークで首脳会談を行った。内容は核に関する秘密協定(ハイドパーク協定)であり、原爆が完成すれば日本への原子爆弾投下の意志が示され、核開発に関する米英の協力と将来の核管理についての合意がなされた。
前後して、ルーズベルトは原子爆弾投下の実行部隊(第509混成部隊)の編成を指示した。混成部隊とは陸海軍から集めて編成されたための名前である。1944年9月1日に隊長を任命されたポール・ティベッツ陸軍中佐は、12月に編成を完了し(B-29計14機および部隊総員1,767人)、ユタ州のウェンドバー基地で原子爆弾投下の秘密訓練を開始した。1945年2月には原子爆弾投下機の基地はテニアン島に決定され、部隊は1945年5月18日にテニアン島に移動し、日本本土への原爆投下に向けた準備を開始した。
デンマークの理論物理学者ニールス・ボーアは、1939年2月7日、ウラン同位体の中でウラン235が低速中性子によって核分裂すると予言し、同年4月25日に核分裂の理論を米物理学会で発表した。この時点ではボーアは自分の発見が世界にもたらす影響の大きさに気づいていなかった。
1939年9月1日、第二次世界大戦が勃発し、ドイツによるヨーロッパ支配拡大とユダヤ人迫害を見て、ボーアは1943年12月にイギリスへ逃れた。そこで彼は米英による原子力研究が平和利用ではなく、原子爆弾として開発が進められていることを知る。原子爆弾による世界の不安定化を怖れたボーアは、これ以後ソ連も含めた原子力国際管理協定の必要性を米英の指導者に訴えることに尽力することになる。
1944年5月16日に、ボーアはチャーチルと会談したが説得に失敗、同年8月26日にはルーズベルトとも会談したが同様に失敗した。逆に同年9月18日の米英のハイドパーク協定(既述)では、ボーアの活動監視と、当時英米との対立姿勢が目立ってきたソ連との接触阻止が盛り込まれてしまう。さらに、ルーズベルト死後の1945年4月25日に、ボーアは科学行政官のヴァネヴァー・ブッシュと会談し説得を試みたが、彼の声が時の政権へ届くことはなかった。
また、1944年7月にシカゴ大学冶金研究所のアーサー・コンプトンが発足させたジェフリーズ委員会が原子力計画の将来について検討を行い、1944年11月18日に「ニュークレオニクス要綱」をまとめ、原子力は平和利用のための開発に注力すべきで、原子爆弾として都市破壊を行うことを目的とすべきではないと提言した。しかし、この提言が生かされることがなくなったのは、トルーマンが政権を引き継いでからのことである。
当初、ルーズベルトは、原子爆弾を最初から日本に投下するつもりはなく、1944年5月に日本への無条件降伏の要求を取り下げ、アメリカ国務省極東局長を対日強硬策を布いたスタンリー・クール・ホーンベックから、駐日大使を務めたことのあるジョセフ・グルーに交代するなど、日本への和平工作を行っていた[28]。
これらのアメリカ側の動きを日本側は、アメリカ軍の損耗を最小限にするため行っているという認識であったが、ルーズベルトは、中国で国共内戦が勃発することを恐れており、その予防に兵力を振り向けたい思いで、動いていたのであった[28]。
ルーズベルトが急死したことによって、急遽、副大統領だったトルーマンが大統領に昇進した。
ナチス・ドイツ降伏後の1945年5月28日には、アメリカに核開発を進言したその人であるレオ・シラードが、後の国務長官バーンズに原子爆弾使用の反対を訴えている[29]。
バーンズはマンハッタン計画の責任者の一人として、東ヨーロッパで覇権を強めるソ連を牽制するために、日本に対する原爆攻撃を支持しており、天皇の護持が容れられれば、日本には終戦交渉の余地があるとする、戦後日本を有望な投資先と考える国務次官グルー、陸軍長官スティムソン、海軍長官ジェームズ・フォレスタルら三人委員会とは正反対の路線であった。「一発で都市を吹っ飛ばせる兵器を、我々アメリカが所有していることを事前警告すべきである。それでも降伏しなければ原爆を投下すると日本政府に伝えるべきだ」と主張し無警告の原爆投下に反対を訴えた陸軍次官のジョン・J・マクロイに対して、バーンズは「それはアメリカの弱さを示すものだ、原爆投下前に天皇制を保証し降伏を呼びかけるのは反対だ」と述べる[30]。
1945年6月11日には、シカゴ大学のジェイムス・フランクが、グレン・シーボーグ、レオ・シラード、ドナルド・ヒューズ、J・C・スターンス、ユージン・ラビノウィッチ、J・J・ニクソンたち7名の科学者と連名で報告書「フランクレポート」を大統領諮問委員会である暫定委員会に提出した[31]。その中で、社会倫理的に都市への原子爆弾投下に反対し、砂漠か無人島でその威力を各国にデモンストレーションすることにより戦争終結の目的が果たせると提案したが、暫定委員会の決定が覆ることはなかった。また同レポートで、核兵器の国際管理の必要性をも訴えていた[32]。
1945年7月1日、チャーチルがアメリカによる日本への原爆使用に最終同意して署名していたことが、後に英国立公文書館所蔵の秘密文書で判明した。打診は、アメリカが核兵器開発に成功してもイギリスが同意しなければ使用できないなどと定めた1943年8月の「ケベック協定」に基づく。[33]なお、原爆投下前にチャーチルは首相を退任している。
さらに1945年7月12日、シカゴ大学冶金研究所で原爆の対日使用に関するアンケートがあった。それによると、科学者150人のうちの85%が無警告での原爆投下に反対を表明している。7月17日にもシラードら科学者たちが連名で原子爆弾使用反対の大統領への請願書を提出したが、原爆投下前にトルーマンに届けられることはなかった[34]。マンハッタン計画の指揮官であるグローヴス陸軍少将が請願書を手元に置き、大統領に届かないように妨害したためであった。
軍人では、ドワイト・D・アイゼンハワー将軍が、対日戦にもはや原子爆弾の使用は不要であることを、1945年7月20日にトルーマンに進言しており[35]、アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ提督も、都市への投下には消極的で、ロタ島への爆撃を示唆している。
また連邦政府側近でも、ラルフ・バードのように原子爆弾を使用するとしても、事前警告無しに投下することに反対する者もいた。7月24日のポツダム会談でチャーチルは、1944年9月にトルーマンの前任のルーズベルトと日本への原爆使用を密約した「ハイドパーク協定」を持ち出し、「警告なしで使用すべきだ」とトルーマンに迫った。また、大統領だったトルーマン自身も、自身の日記に「原爆の投下場所は、軍事基地を目標にする事。決して一般市民をターゲットにする事がないようにとスティムソンに言った。」と書いていたため、市民の上への原爆投下には反対していたことが明らかになっている。
しかしマンハッタン計画の責任者だったグローヴスは、原爆による最大の破壊効果を得たいが為に「広島は軍事都市である」との偽装した報告書を提出した挙げ句、勝手に原爆投下指令書を作成した(当然ながら大統領だったトルーマンがそれを許可した証拠はない)[要出典]。そして、ワシントンで原爆投下の一報を聞いたグローブスは、原爆開発をした科学者たちに対し「君たちを誇りに思う。」とねぎらったという。
広島と長崎が原子爆弾による攻撃目標となった経緯[36]は、日本の各都市への通常兵器による精密爆撃や焼夷弾爆撃が続けられる中で、以下のようなものであった。
1943年5月5日の軍事政策委員会で最初の原子爆弾使用について議論がなされ、トラック島に集結する日本艦隊に投下するのがよいというのが大方の意見であった[37]。
1944年11月24日から翌3月9日は通常兵器による空爆第一期で、軍需工場を主要な目標とした精密爆撃が行われた。ただし、カーチス・ルメイ陸軍少将による焼夷弾爆撃も実験的に始められていた。
ついで、1945年3月10日から6月15日は通常兵器による空爆第二期で以下のような大都市の市街地に対する焼夷弾爆撃が行われた。
1945年4月12日のルーズベルトの急死により、副大統領であったトルーマンが大統領に就任した。ルーズベルトの原子爆弾政策を継いだトルーマンに、「いつ・どこへ」を決定する仕事が残された。4月25日にスティムソン陸軍長官と、マンハッタン計画指揮官グローヴスがホワイトハウスを訪れ、原爆投下に関する資料を提出した。しかしこの際トルーマンは、「資料を見るのは嫌いだ」と語ったという。
1945年4月中旬から5月中旬に、沖縄戦を支援するため九州と四国の飛行場を重点的に爆撃し、大都市への焼夷弾爆撃は中断された。このため京都大空襲が遅れた[37]。
1945年4月27日、陸軍の第1回目標選定委員会 (Target Committee) において以下の決定がなされた。これはアメリカ政府に対しては極秘の元に行われた。
1945年5月10日と11日の第2回目標選定委員会がロスアラモスのオッペンハイマー博士の執務室で開かれ、8月初めに使用予定の2発の原子爆弾の投下目標として、次の4都市が初めて選定された[37]。
このとき以下の3基準が示された[37]。
1945年5月28日、第3回目標選定委員会が開かれた。京都市、広島市、新潟市に投下する地点について重要な決定がされ、横浜市と小倉市が目標から外された[37]。
これらの原子爆弾投下目標都市への空爆の禁止が決定された。禁止の目的は、原爆のもたらす効果を正確に測定把握できるようにするためである。これが目標となった都市に「空襲がない」という流言を生み、一部疎開生徒の帰郷や、他の大都市からの流入を招くこととなった。
1945年5月29日、目標から外された翌日に横浜大空襲が行われた。なお、この横浜大空襲は、第3回目標選定委員会で横浜が目標から外されたから行われたものでなく、横浜に対して通常空襲を行うために、原子爆弾の投下目標から外したものと思われる[38]。
1945年6月1日、スティムソン陸軍長官を委員長とする政府の暫定委員会は、
と決定した[37]。なお原子爆弾投下の事前警告については、BBC(ニューデリー放送)やVOA(サイパン放送)で通告されていたという説もあるが[39]、確認されていない。
この経過の中で、4つの目標都市のうち京都が次の理由から第一候補地とされていた[37]。
しかし、フィリピン総督時代に京都を訪れたことのあるスティムソン陸軍長官の強い反対にあったことや[注 3]、戦後、「アメリカと親しい日本」を創る上で、京都には千数百年の長い歴史があり、数多くの価値ある日本の文化財が点在、これらを破壊する可能性のある原子爆弾を京都に投下したならば、戦後、日本国民より大きな反感を買う懸念があるとの観点から、京都への原子爆弾投下は問題であるとされた。
1945年6月14日、京都市が除外され、目標が小倉市、広島市、新潟市となる。しかし京都への爆撃禁止命令は継続された[37]。
1945年6月16日から終戦まで、通常兵器による空爆第三期となり、中小都市への焼夷弾爆撃が行われた。
1945年6月30日、アメリカ軍統合参謀本部がダグラス・マッカーサー陸軍大将、チェスター・ニミッツ海軍大将、ヘンリー・アーノルド陸軍大将宛に、原子爆弾投下目標に選ばれた都市に対する爆撃の禁止を指令。同様の指令はこれ以前から発せられており、ほぼ完全に守られていた[37][41]。
1945年7月3日、それでもなお、京都市が京都盆地に位置しているので原子爆弾の効果を確認するには最適として投下を強く求める将校、科学者も多く存在し、その巻き返し意見によって再び京都市が候補地となった[37]。
1945年7月20日、パンプキン爆弾による模擬原子爆弾の投下訓練が開始された[38]。
1945年7月21日、ワシントンのハリソン陸軍長官特別顧問(暫定委員会委員長代行)からポツダム会談に随行してドイツに滞在していたスティムソン陸軍長官に対して、京都を第一目標にすることの許可を求める電報があったが、スティムソンは直ちにそれを許可しない旨の返電をし、京都市の除外が決定した[37][41]。
1945年7月24日、京都市の代わりに長崎市が、地形的に不適当な問題があるものの目標に加えられた。スティムソン陸軍長官の7月24日の日記には「もし(京都の)除外がなされなければ、かかる無茶な行為によって生ずるであろう残酷な事態のために、その地域において日本人を我々と和解させることが戦後長期間不可能となり、むしろロシア人に接近させることになるだろう(中略)満州でロシアの侵攻があった場合に、日本を合衆国に同調させることを妨げる手段となるであろう、と私は指摘した。」とあり、アメリカが戦後の国際社会における政治的優位性を保つ目的から、京都投下案に反対したことが窺える[37][41]。トルーマン大統領のポツダム日記7月25日の項にも「目標は、水兵などの軍事物を目標とし、決して女性や子供をターゲットにする事が無いようにと、スティムソンに言った。たとえ日本人が野蛮であっても、共通の福祉を守る世界の指導者たるわれわれとしては、この恐るべき爆弾を、かつての首都にも新しい首都にも投下することはできない。その点で私とスティムソンは完全に一致している。目標は、軍事物に限られる。」とある[41]。
1945年7月25日、マンハッタン計画の最高責任者グローヴスが作成した原爆投下指令書が発令される(しかし、それをトルーマンが承認した記録はない)。ここで「広島・小倉・新潟・長崎のいずれかの都市に8月3日ごろ以降の目視爆撃可能な天候の日に「特殊爆弾」を投下する」とされた[37][38][41]。
1945年8月2日、第20航空軍司令部が「野戦命令第13号」を発令し、8月6日に原子爆弾による攻撃を行うことが決定した。攻撃の第1目標は「広島市中心部と工業地域」(照準点は相生橋付近)、予備の第2目標は「小倉造兵廠ならびに同市中心部」、予備の第3目標は「長崎市中心部」であった[37][38]。
1945年8月6日、広島市にウラニウム型原子爆弾リトルボーイが投下された。
1945年8月8日、第20航空軍司令部が「野戦命令第17号」を発令し、8月9日に2回目の原子爆弾による攻撃を行うことが決定した。攻撃の第1目標は「小倉造兵廠および市街地」、予備の第2目標は「長崎市街地」(照準点は中島川下流域の常盤橋から賑橋付近)であった[38][42]。
1945年8月9日、第1目標の小倉市上空が視界不良であったため、第2目標である長崎市にプルトニウム型原子爆弾ファットマンが投下された。小倉が視界不良であった理由には天候不良のほか、八幡大空襲で生じた煙によるなどの説がある[43]。
1945年7月20日以降、第509混成部隊は長崎に投下する原子爆弾(ファットマン)と同形状の爆弾に通常爆薬を詰めたパンプキン爆弾(総重量4,774キログラム、爆薬重量2,858キログラム)の投下訓練を繰り返した[44]。すなわち、原子爆弾の投下予行演習である。テニアン島から日本列島の原子爆弾投下目標都市まで飛行して都市を目視観察した後に、その周辺の別な都市に設定した訓練用の目標地点に正確にパンプキンを投下する練習が延べ49回、30都市で行われた。
パンプキン練習作戦は、1945年7月24日、7月26日、7月29日、8月8日及び8月14日と終戦直前まで行われた。
パンプキン爆弾による訓練に並行して、完成した原子爆弾を部品に分けての輸送が行われた。損傷の修理のために戦列を離れていたアメリカ海軍のポートランド級重巡洋艦インディアナポリスは、原子爆弾運搬の任務を与えられ1945年7月16日にサンフランシスコを出港し、7月28日にテニアン島に到着した。また、アメリカ陸軍航空隊(現・アメリカ空軍)のダグラスC-54スカイマスター輸送機がウラン235のターゲットピースを空輸した。この原子爆弾の最終組立は、テニアン島の基地ですべて極秘に行われた。
このインディアナポリスは、帰路の1945年7月30日フィリピン海で、橋本以行海軍中佐が指揮する日本海軍の伊号第五八潜水艦の魚雷によって撃沈されている(インディアナポリス撃沈事件)。この潜水艦は、当時、特攻兵器である人間魚雷回天を搭載しており、回天隊員から出撃要求が出されたが、「雷撃でやれる時は雷撃でやる」と通常魚雷で撃沈した。インディアナポリスの遭難電報は無視され、海に投げ出された乗員の多くが疲労・低体温症・サメの襲撃にあって死亡した。そのため、原子爆弾には「インディアナポリス乗員の思い出に」と白墨(チョーク)で記された。インディアナポリス艦長チャールズ・バトラー・マクベイ3世大佐はその後軍法会議に処せられたが、自艦を戦闘で沈められたために処罰された艦長は珍しい。第二次世界大戦後、米軍は原爆輸送の機密漏洩を疑い、橋本潜水艦長を長く尋問したが、その襲撃は偶然であった。インディアナポリスがテニアン島への往路に撃沈されていれば、1945年8月6日の広島市への原子爆弾投下は不可能となっていた。
1945年当時、大本営と帝国陸軍中央特種情報部(特情部)は、サイパン島方面のB-29部隊について、主に電波傍受によってその動向を24時間体制で監視していた。大本営陸軍部第2部第6課(情報部米英課)に所属していた堀栄三が後に回想したところによれば、第509混成部隊がテニアン島に進出したことや、進出してきたB-29の中の一機が飛行中に長文の電報をワシントンに向けて打電したこと(このようなことは通常発生しない)、それ以前からサイパン方面に存在していた他のB-29部隊が基本的にV400番台、V500番台、V700番台のコールサインを用いていたのと異なり、第509混成部隊がV600番台のコールサインを使用していたことから、東京都杉並区にあった陸軍特殊情報部(現在、高井戸にある社会福祉法人浴風会本館内)では新部隊の進出を察知していた[45]。
その後1945年6月末ごろから、この「V600番台」のB-29がテニアン島近海を飛行し始め、7月中旬になると日本近海まで単機または2、3機の小編隊で進出しては帰投する行動を繰り返すようになったことから、これらの機体を特情部では「特殊任務機」と呼び警戒していた。しかし、これらのB-29が原爆投下任務のための部隊であったことは、原子爆弾投下後のトルーマンの演説によって判明したとのことであり、「特殊任務機」の目的を事前に察知することはできなかった[46]。だが、事態が判明した後の長崎原爆投下を阻止しようとしなかったのかについては不明で、付近に当時日本軍の最新鋭機の一つである紫電改を装備した第三四三海軍航空隊が待機していたのに関わらず、海軍が部隊に出撃命令を下さなかったのかについては帝国陸軍中央特種情報部の高官が情報を握りつぶし、情報が海軍へ伝えられなかったからだと当時の関係者はインタビュー[要文献特定詳細情報]で答えている[要出典][注 4]。
そもそも、日本軍は当時日本でも原子爆弾開発が行われていたにもかかわらず、ドイツやイタリアから亡命してきた科学者たちによるアメリカにおける原子爆弾開発の進捗状況をほとんど把握しておらず、およそ特情部においては1945年「7月16日ニューメキシコ州で新しい実験が行われた」との外国通信社の記事が目についたのみであった[47]。
もちろん、これはトリニティ実験を指した報道であったのであるが、実験直後の時点ではその内容は公開されておらず、当時の日本軍にその内容を知る術はなかった。それを踏まえ、堀は「原爆という語は、その当時かけらほどもなかった」と語っている。また、特情部では、当時スウェーデンの日本大使館に勤務していた駐在武官を通じて経由して入手したアメリカ海軍のM-209暗号装置を用いた暗号解読も進めていたが、この暗号解読作業において「nuclear」(原子核)の文字列が現れたのが、広島と長崎に原子爆弾が投下された直後の8月11日[48] のことであった。
当初は、軍部(主に陸軍)は新爆弾投下に関する情報を国民に伏せていたが、広島及び長崎を襲った爆弾の正体が原爆であると確認した軍部は報道統制を解除。11日から12日にかけて日本の新聞各紙は広島に特派員を派遣し、広島を全滅させた新型爆弾の正体が原爆であると読者に明かした上、被爆地の写真入りで被害状況を詳細に報道した。これによって、当時自国でも開発が進められていたもののその詳細は機密扱いであったこともあり、一般にはSF小説、科学雑誌などで「近未来の架空兵器」と紹介されていた原爆が発明され、日本が攻撃を受けたことを日本国民は初めて知ったのである[注 5]。
なお、この原爆報道によって、新潟県は8月11日に新潟市民に対して「原爆疎開」命令 [2] を出し、大半の市民が新潟市から脱出し新潟市は無人都市になった。その情報は8月13日付の讀賣報知(現・読売新聞)に記載された[49]。これは新潟市も原爆投下の目標リストに入っているらしいという情報が流れたからである。原爆疎開が行われた都市は新潟市だけであった。また東京でも、単機で偵察侵入してきたB-29を「原爆搭載機」、稲光を「原爆の閃光」と誤認することもあった。
1945年8月15日終戦の日の午前のラジオ放送で、仁科芳雄博士は原爆の解説を行った。さらに8月15日正午、戦争の終結を日本国民に告げるために行われたラジオ放送(玉音放送)で、原爆について「敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル(敵は新たに残虐な爆弾を使用して、罪もない者たちを殺傷し、悲惨な損害の程度は見当もつけられないまでに至った)而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ(それなのになお戦争を継続すれば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、さらには人類の文明をも破滅させるに違いない。)」と詔があった(第二次世界大戦中、日本の軍部にも二つの原子爆弾開発計画が存在していた。陸軍の「ニ号研究」と海軍のF研究である)。
正確な犠牲者数などは、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ / SCAP) 占領下では言論統制され、日本が主権を回復した1952年に初めて報道された。
原子爆弾が広島・長崎に投下された後、日本の報道機関は号外を出し、原子爆弾への対策とその心得を国民へ伝達している[50]。
東京朝日新聞 昭和二十年 八月十一日付特報(送り仮名等は実際に掲載されたものに則っている)
新型爆彈への心得 防空總本部發表
橫穴式防空壕が有效 初期防火・火傷に注意
國際法を無視した廣島の新型爆彈を、現地に出張、視察した陸海軍および防空總本部の專門家の調査に基いて新型爆彈に對する心得を防空總本部から十一日發表した、なほさきに二回にわたつて發表された注意は有效であるから今回の左記注意を追加すれば一層完璧である
一、落下傘やうのものが降下するから目撃したら確實に待避すること
二、鐵筋コンクリート造りの建物は安全度が高いからこれを有效に利用すること しかし窓ガラスは破壞するからこれがための負傷を注意すること、壁、柱型、窓下、腰壁を待避所とすると有效である
三、破壞された建物から火を發するから初期防火に注意すること
四、傷害は爆風によるものと火傷であるがそのうちでも火傷が多いから火傷の手當を心得えておくこと、もつとも簡單な火傷の手當法は油類を塗るか鹽水で濕布をするがよい
五、横穴式防空壕は堅固な待避壕と同樣に有效である
六、白い衣類は火傷を防ぐために有效である(但し白い着衣は小型機の場合は目標となり易い、よく注意のこと)
七、待避壕の入口は出來るだけふさぐのがよろしい
八、蛸壺式防空壕は板一枚でもしておくと有效である
終戦直前、アメリカは出来る限りいくつかの原子爆弾の製造を順次進めており、長崎への原子爆弾投下後も、第三の原爆を落とす準備に入ろうとしていた。8月15日に日本が降伏を表明するわずか数時間前(米国時間14日)、トルーマンは英国外交官を前に「第三の原爆投下を命令する以外に選択肢はない」と漏らしていたが、日本が降伏したことで第三の原子爆弾が日本に投下されることはなかった[51]。
仮に第三の原子爆弾の投下命令が下った際、その候補地は小倉市、京都市、新潟市など諸説あるが、1945年8月14日に愛知県で行われた7発のパンプキン爆弾の投下は、3発目の原子爆弾の投下訓練であったとされ、いずれも爆撃機が京都上空を経由した後に愛知県に投下していることから、第三の原子爆弾の標的は京都市であったと考えられる理由の一つとなっている[37]。また、プルトニウムコアの輸送が遂行されて原爆を完成させた後、8月19日か20日に東京に投下する予定であったという情報もある[52]。
また広島市・長崎市に投下された新型爆弾が、新潟市にも落とされるとの畠田昌福新潟県知事の見解により、「罪の無い市民を皆殺しにしようとする敵の作戦に肩透かしをくらわせる」と述べた上で、新潟市の中心から5里(約20キロメートル)以上疎開することを求めた布告を8月11日に出したため、新潟市の中心部が終戦直後まで無人状態になった。なお、新潟への投下については出撃基地のテニアン島から遠い上、目標の都市規模が小さすぎること等から、8月6日、8月9日共に予備投下目標にすら選ばれなかったという[53][54]。
極東国際軍事裁判(東京裁判)において連合国側はニュルンベルク裁判と東京裁判との統一性を求めていたが、インドのラダ・ビノード・パール判事はその不同意判決書の中で、日本軍による残虐な行為の事例が「ヨーロッパ枢軸の重大な戦争犯罪人の裁判において、証拠によりて立証されたと判決されたところのそれとは、まったく異なった立脚点に立っている[55]」と、戦争犯罪人がそれぞれの指令を下したとニュルンベルク裁判で認定されたナチス・ドイツの事例との重要な違いを指摘した上で、「(米国の)原爆使用を決定した政策こそがホロコーストに唯一比例する行為」と論じ、米国による原爆投下こそが、国家による非戦闘員の生命財産の無差別破壊としてナチスによるホロコーストに比せる唯一のものであるとした。
同趣旨の弁論は他の弁護士によってもなされ、ベン・ブルース・ブレイクニー弁護人は1946年5月14日の弁護側反証段階の冒頭で、アメリカの原子爆弾投下問題を取り上げ、「キッド提督の死が真珠湾攻撃による殺人罪になるならば、我々は、広島に原爆を投下した者の名(ポール・ティベッツ)を挙げることができる。投下を計画した参謀長(カール・スパーツ)の名も承知している。その国の元首の名前[56] も承知している。彼らは、殺人罪を意識していたか?してはいまい。我々もそう思う。それは彼らの戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからである。何の罪科でいかなる証拠で戦争による殺人が違法なのか。原爆を投下した者がいる。この投下を計画し、その実行を命じ、これを黙認したものがいる。その者達が裁いているのだ。彼らも殺人者ではないか」と発言した。なおこの発言が始まると、チャーターで定められている筈の同時通訳が停止し、日本語の速記録にもこの部分のみ「以下、通訳なし」としか記載されなかった[57]。ブレイクニー弁護人は、1947年3月3日にも、原子爆弾は明らかにハーグ陸戦条約第四項が禁止する兵器だと指摘した。またイギリスのアーサー・S・コミンズ・カー検察官による「連合国がどんな武器を使用しようと本審理にはなんらの関係もない」との反駁に対し、日本はそれに対して報復する権利がある、と主張した。
またパールは1952年11月、広島市を訪問し、講演「世界に告ぐ」では「広島、長崎に原爆が投ぜられたとき、どのようないいわけがされたか、何のために投ぜられなければならなかったか」[58]など、原爆投下を強く非難した[59]。講演では、「いったいあの場合、アメリカは原子爆弾を投ずべき何の理由があっただろうか。日本はすでに降伏すべき用意ができておった」「これを投下したところの国(アメリカ)から、真実味のある、心からの懺悔の言葉をいまだに聞いたことがない」、連合国側の「幾千人かの白人の軍隊を犠牲にしないため」という言い分に対しては「その代償として、罪のないところの老人や、子供や、婦人を、あるいは一般の平和的生活をいとなむ市民を、幾万人、幾十万人、殺してもいいというのだろうか」「われわれはこうした手合と、ふたたび人道や平和について語り合いたくはない」として、極めて強く原爆投下を批判した。
日本は世界で唯一、戦争における原子爆弾の直接被害を受けた国であるが、この経験は、太平洋戦争終結直後から、米国国務省内で原子爆弾の使用に反対した者たちの予想[60] にも反し、日本国民の反米感情や報復意識には繋がっていない。1946年の日本でのアメリカ戦略爆撃調査団による大規模調査結果によると、広島、長崎では19%、日本全体でもわずか12%の被調査者のみが、原爆投下に対しアメリカに憎しみを感じたという。また戦後20年間の書籍、新聞、雑誌の原爆関係記事では、おおむね原爆の悲惨さを訴えるものが多く、アメリカへの恨みはほとんどないという。しかしこれらの「沈黙」は、その後の生活に必死で心情を吐露する余裕がなかったことや、被爆による悲惨な経験を思い出したくない、就職や結婚での差別や偏見を逃れたい、犠牲になった同胞を差し置いて自分のみが生き残った後ろめたさなどの感情があると推察され、また占領軍による検閲が1945年9月19日から1949年10月末まで行われ、被爆者が自己の経験を語ることはもとより、原爆に関する科学的・医学的情報の公開まで禁じられたことが背景としてある[61]。
救護を目的としない被爆者の詳細な健康被害調査は原爆投下直後から日本側により開始された。この日本側調査報告書は戦後直ちに米国側に全て英訳されて渡された。これは米国の提出命令によるものではなく、自主的なものであり、戦後も日本側は米国の調査に積極的に協力していたことが、米国公文書公開によって明らかになっている。これらの調査は詳細かつ執拗で、被爆者に治療とは関係のない薬物を投与し、その反応を観るといったものまでなされていた。調査結果は米国核戦略上の資料となり、永く被爆者の救済に用いられることはなかった[62]。
原子爆弾が日本国民にもたらしたものは、反米感情ではなく、放射能、放射線に対する「恐怖」であった[60]。そしてそれは戦後しばらくの間、被爆者に直接、向けられた。新聞・雑誌などにおいても被爆者は「放射能をうつす存在」あるいは重い火傷の跡から「奇異の対象」などとして扱われることがあり、被爆者に対する偏見・差別は多くあった。このため少なからず被爆者は自身が被爆した事実を隠して暮らすようになっていった。今日、日本放送協会は、これを戦後のGHQによる言論統制の影響、すなわち正しく原爆に関する報道がなされなかったために、当時、放射能・放射線の知識が一般的でなかったことと相まって、誤った認識が日本国民の間に蔓延したためであったと分析・公表している[63]。また、RCC記者であった秋信利彦は、当時の被爆者の報道機関に対する強い反感と反発の実態について証言している[64]。この日本国民の放射能、放射線に対する「恐怖」は、当時米国が優位にあった原子力産業の日本進出を決定的に阻むものともなり、日本の主権回復後、米国は民間を中心に莫大な経費を投じ、原子力平和利用キャンペーンを日本国内各地で展開している[60]。
被爆者への救護施策は1945年10月の各救護所の閉鎖をもって終了し、以降、何の公的支援もなされない状況が長く続いた。国の被爆者援護施策は、1957年4月の「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」(原爆医療法)施行より、実質的には1960年8月に「特別被爆者制度」が創設されて以降である。しかしこの被爆者援護施策は限定的で、救済されない被爆者が多く、概ね充実したのは実に1995年7月の「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」(被爆者援護法)の施行以降である[65]。
東京地方裁判所は、1963年12月7日、被爆者は損害賠償請求権を持たないとして、日本へのアメリカ軍による原子爆弾投下は国際法に違反したものであり、また同時に大日本帝国の戦争責任を認め、引き継ぐ日本国が十分な救済策を執るべきは立法府及び内閣の責務であるとする判決を下し、確定した[66][67]。以降、今日に至るまで、日本国内の被爆者関連の施策あるいは裁判において、この基本的な考え方が準用され続けている。
しかし今日、日本では「核兵器廃絶運動に関心はなく、具体的に参加したこともない」とする人が20代、30代の男女で23~25%いるとする調査結果[68] や、平和活動未経験かつ参加したくないとする人が23%いるという調査結果[69] などから、特に若年層を中心として、広島・長崎への原爆投下に対する問題意識の希薄化が進んでいるとされる一方で、原爆投下における体験の継承の重要性の認識とは裏腹に、継承がうまくいっていないとする回答[70] や、平和教育の不十分さを指摘する調査結果[71] も出ている。 終戦直後はともかく、こういった今日に至るも原爆投下に関してアメリカの加害責任を問うことなく、その原因と責任の全てを、おおむね日本の軍部などに求め「過去のものにする」世論は、やはり戦後のGHQによる言論統制によって形成されたものだとする意見もあるが[72]、これについては他にも類似の、あるいは全く異なる意見[要出典]があり、本稿では控える。
原子爆弾の投下によって生じた悲劇は、21世紀に入った現在においてもなお終結しているものとはいえない[73]。他の兵器と原子爆弾による人的被害の決定的な相違は、強力な原爆放射線や放射能によってもたらされた難治性疾患や永続的な後遺症(晩発性疾患を含む)にあり、生き残った被爆者やその家族に現在もなお、現実的な労苦を強いるものとなっている。これは少なくとも全ての被爆者が亡くなるまで続くものとされると主張している[74][75]。現在のところ公式には(日本国政府などの見解としては)否定されているものの、医学的見地などから、被爆者や、その親を持つ子(被爆二世)さらに被爆三世への健康的・遺伝的影響について、調査・研究が継続されている[要追加記述][74] 反面、打ち切りになったもの[76] もある。 また、広島、長崎両市では被爆二世への健康診断(任意検診)も行われている[77][78]。
2012年6月3日、長崎原爆資料館で開催された第53回原子爆弾後障害研究会、広島大学の鎌田七男名誉教授らによる「広島原爆被爆者の子どもにおける白血病発生について」の研究結果発表、すなわち広島大学原爆放射線医科学研究所研究グループの長期調査結果報告において、被爆二世の白血病発症率が高い、特に両親ともに被爆者の場合に白血病発症率が高いことが50年に渡る統計結果より明らかにされた。これにより、まだ一部しか解明されたとしかいえないが、医学的に少なくとも被爆二世への遺伝的影響の否定はできないことが明らかにされた[79]。
東京帝国大学(現・東京大学)で、1945年8月6日の広島と9日の長崎の原爆による被爆者を使って、戦後2年以上に渡り日本国憲法施行後も、あらゆる人体実験が実施されたことを、NHKが、2010年8月6日NHKスペシャル『封印された原爆報告書』にて調査報道した。 その報道の内容は次の通り[80][81]。
字幕:昭和20年8月6日、広島。昭和20年8月9日、長崎。
ナレーター:広島と長崎に相次いで投下された原子爆弾、その年だけで、合わせて20万人を超す人たちが亡くなりました。原爆投下直後、軍部によって始められた調査は、終戦と共に、その規模を一気に拡大します。国の大号令で全国の大学などから、1300人を超す医師や科学者たちが集まりました。調査は巨大な国家プロジェクトとなったのです。2年以上かけた調査の結果は、181冊。1万ページに及ぶ報告書にまとめられました。大半が、放射能によって被曝者の体にどのような症状が出るのか、調べた記録です。日本はその全てを英語に翻訳し、アメリカへと渡していました。
字幕:東京大学
ナレーター:日本が国の粋を集めて行った原爆調査。参加した医師は、どのような思いで被曝者と向き合ったのか。山村秀夫さん90歳、都築教授が率いる東京帝国大学調査団の一員でした。当時、医学部を卒業して2年目の医師だった山村さん。調査は全てアメリカのためであり、被曝者のために行っている意識は無かったと言います。
山村さん:もういっさいだって、結果は日本で公表することももちろんダメだし、お互いに持ち寄って相談するということもできませんですから。とにかく自分たちで調べたら全部向うに出すと。
ナレーター:山村さんが命じられたのは、被曝者を使ったある実験でした。報告書番号23、山村さんの論文です。被曝者にアドレナリンと言う血圧を上昇させるホルモンを注射し、その反応を調べていました。12人の内6人は、わずかな反応しか示さなかった。山村さんたちは、こうした治療とは関係のない検査を毎日行っていました。調べられることは全て行うのが、調査の方針だったと言います。
山村さん:生きてる人は生前にどういう変化を起こしているかということを、少しでも何かの手掛かりは見つけて、調べるということだけでしたから、それ以外何にもないですね。あんまり他のことも考えれなかったですね。とにかくそれだけやると。
NHKインタビューアー:今となってみたらどうお感じになりますか?そのことは。
山村さん:(苦笑)、今となってみたらねぇ。そうですねえ、まあもっと他にいい方法があったのかも知れませんけど、だけど今と全然違いますからねぇ、その時の社会的な状況がね。
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